「ですます調」より「である調」の方がブログが書きやすい!?
これまで「ですます調」で記事を書いてきたが、10記事目でいきなり「である調」になっていてもしかしたらビックリした方もいるのではないだろうか。
「ですます調」→「である調」に変わった理由はいくつかある。
- 「である調」の方が表現の幅が広がる
- 「である調」の方がテンポよく書ける
- 姉妹ブログに引っ張られた
- 気分屋
- 設定がイマイチ定まっていない
今までの「ですます調」の記事はどこか単調でテンポが悪い印象。
語尾がだいたい「~です」・「~でした」・「~と思います、感じます」・「~と思いました、感じました」のどれかで、たまに「~でしょう」とかがチラっと登場したり。
ワンパターン感は否めない。
それが「である調」に変えたとたん、比較的勢いに乗って記事を書けるようになったし、読みやすさも上がった気がする。
例えば体言止めなんかは「である調」の方が個人的にダンゼン文中に挟みやすいから、それが記事にリズムが出てきた理由だろう。
それを裏付けるように、最初から「である調」で書いている姉妹ブログ(小さいですけど何か?) の方が、後から始めたにも関わらず反響が大きい。
きっと自分は「である調」の方がより自分らしさを出せるのだと思う。
それを証拠に、約2週間向こうのブログばかり面倒を見て、その間こっちは放置状態だった。
2つのブログで全く違う顔があって良いと考えているけど、そのキャラ設定やコンセプトが甘々。
だから、このブログに向こうのピンクうさぎが覗きに来たり、こっちの白うさぎが向こうのブログに大胆登場したり・・・なんてこともあるでしょう(笑)
人には色んな顔があって当たり前で、笑ってる時もあれば泣くときもあるし、テンション爆上げな時もあれば超絶不機嫌な時もある。
だから文体やキャラが安定しなくても良いかな~とか言い訳してみるww
あくまで自分の語彙力が足りてないだけの話で、ですます調を上手く操れる人もたくさんいるだろう。
よってどちらの文体の方が良いかは人による。
ただ自分の経験から「である調」より「ですます調」の方が難度は高いと感じた。
基本的に文体は揃えるに越したことはないのだろうけど、これは論文や学校のテストではなく個人ブログ。
これから先同じ記事内でも文体をあえてごちゃ混ぜにすることもあるだろうし、今までに書いた記事の語尾を修正することもしない。
そんな不完全さを平気で晒していくスタイルもある意味斬新で悪くないんじゃないかと。
自分らしく気まぐれにブログを続けていきたい。
発達障害・APDの特徴「見た目で分からない」ことに辛さを感じない理由
よく、発達障害や聴覚情報処理障害(APD)は見た目で分からないからこそ辛いと言われている。
確かに見た目で分からないことによって誤解が生じることはある。
けれでも、実際見た目で分かる障害だったら、それはそれで辛いと思う。
実は私は発達障害とAPD以外にも、障害ではないけど低身長という目で見てはっきり分かる身体的特徴を持っている。
姉妹ブログとして低身長を主題としたブログをやっているので、興味がある方はそちらもどうぞ宜しくお願いします。↓
低身長だと、初対面なのに友達かと思うぐらいのタメ口で話してこられたり、体育の授業でやる前からできないと決めつけられて周りにクスクス笑われたり。
見た目で人と違うものがあると、触れて欲しくないのに、デリカシーなく、しかも失礼なことを言う人が多い。
こっちは身長関係なくやっていきたいのに、こちらの気持ちはお構いなしに話題にされる辛さや面倒くささは、やはり経験した人にしか分からないのだろうか。
それと似たような感覚で、見た目で分かる障害をお持ちの方も、苦労しているのではないかと思う。
私の想像でしかないけど、親切のつもりで話しかけてくれたんだろうけど今全然困ってないのにな~とか、今は正直誰かと話したくない気分なのに障害が理由でそうせざるを得ないなんてことは結構あるんじゃないかな。
見た目で分からないからこそやり過ごせる場面ってわりと多いと思う。
だから「見た目で分からないからこそ辛い」とは思わない。
発達障害・聴覚情報処理障害(APD)でも特別な配慮は必要ない
普通の人(いわゆる障害持ちじゃない人)と症状の程度に差があるから「障害」になる。
けれども多かれ少なかれ
定形発達でも聞き取れないときは普通にあるはず。
もう1回言って欲しいな~とか、今の説明イマイチよく分かんなかったな~とか。
定型発達同士でも噛み合わないときは普通にあるはず。
あの人の考えは理解できないな~とか、あの人ってみんなから好かれてるみたいだけど自分にはどうも良い人には思えないな~とか。
人それぞれの正義があるし、親切の定義も違うから。
得意不得意もみんな違う。
だから、聞き取れなかったときはもう一度繰り返して言ってくれたり、話して伝えるだけでなく文字化して書いてくれたり、他者との違いに対して排除するのではなく、その違いを楽しんだり。
そんな簡単なことで良いんだ。
もし上記の事柄を特別な配慮だと思う人がいるのなら、それは日頃何気ない場面で他者に救われているってことに気付いていないだけ。
定形の人にも過ごしやすくなるようなちょっとした工夫があるだけで、発達障害や聴覚情報処理障害を抱える人たちは随分と生きやすくなる。
発達障害・聴覚情報処理障害にとって優しい世界は、定型の人にとっても優しい世界。